昭和45年03月03日 朝のご理解
御理解 第28節
「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸替えをするに、八、九分替えて、退屈してやめれば、掃除は出来ぬ。それで、やはり水は濁って居る様なもので、信心も途中で止めれば、病気、災難の根は切れぬ。井戸は清水に成るまで、病気災難は根の切れるまで。一心に、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよ。」
「まめで繁盛する様元気な心で信心せよ」と云うね。是が事実この井戸替えをする様なものであれば、そう大した事はないですけれどもね。まあそう云う道理だと教えて居られる訳ですけれども、是が信心の上に成って参いりますと、大変に難しい事なんですね。井戸替えをすると言う、それならほんな事に大した事はない。成る程井戸替えを七分目、八分目で止めれば、何時までも水は濁って居る様なもので。
ですからそこん所をすっきりと汚いゴミが上がってしもうて、後からこんこんと沸いて来る様なおかげを頂くと、信心にもそう言うおかげを頂かせてまあ欲しいと云う願いを、立てなければいけませんですね。先ず第一に只此の事だけおかげを頂けばいいと金の無い人は、此処にもう百万円のお金が有さえすればいいとおかげさえ頂けばいいと。病気の人はもう此の病気だけ治してもらえば、外には頼まんでもいいように思う。
だからそう云う様ものでは無い。井戸は清水に成るまで言わば汲んでも汲んでも尽きぬ程の、良い水が頂けれるお恵みが頂けれる様な、おかげを頂く為には矢張り信心辛抱が大事なのです。ですから信心辛抱も簡単には信心辛抱なのですけれど、まあ中々ねもう辛抱が出来んと云うのがやっぱり有るんです。昨日は教徒社からみ見えられました。佐藤先生が、久保山さんの所を中心に色々とお話を聞いて下さり。
又こちらからも話させて頂いて、改めて私は久保山一家の信心を、その又思わせて頂いたんですけれども、云うならば普通でならば、もう信心は是でお終いと云う所を、何回も何回も通って居るにもかかわらずです。信心が今日続けられてしかもそれが、家族中兄弟全部。例えば茂さんの信心を中心にするなら、稔さんも言わば孝さんも、姉さんの和子さんもまあ一家を挙げての、そう云う信心がようもやはり続けられたなあと思うのです。それがどう云う様な事でそれがまあ続けられたかと。
まあ信心を頂いて居りましても、不思議な位ですねえ。けれども一人一人のお話を聞ておるとやはり成る程と云う事に、ま成るんですねえ。兎に角ね。日々此の様にも間違のい無い、神様のおかげの中にあると云う事を、日々積み上げて居るからと云う結論が出ましたですね。日々信心の稽古をさせて頂いて此の様にも間違いの無い、神様の働きを見せて頂き聞かせて頂き、又自分自身も体験しておる。
だから例えばあのう久保山さんのお家が、競売に成ろうとした時の事でも、是れ程間違いのない神様にお願いしての事だからと、もうほんのぎりぎりまで、云うなら心配な事は心配なんですけれども、神様に打ち向かえば侭よと云うどん腹が出来て来たと云う事は、是れ程ほど間違いのない神様と云う事を、信じる事が出来たからこそあれが出来たんだと云う事です。あの時既に家も屋敷も人手に渡ろうと云う様な時。
それからあの久保山先生の事故と云う大きなあの二つの山と云うものをですね。ようもあれを乗り越え乗り越えしておかげを頂いた。しかもその久保山先生の事故の時なんかは、本当に神様のご都合の中に起きた事だと、皆が思うて居る事を皆のそれぞれの信心で、ご兄弟も、お母さんも話されたんですけれどね。本当にそうだった。もう一歩だって後に揺るぐと云った様な事は無かった。信心しよってどうしてと云う様なものはみじんも感じなかったですねえ。ああ云う事故の時。
ああ言う云うなら人間の最大の悲しい事に直面しながらもです。それがそんならどうして、そう云う事が出来たかと云うと、いわゆる日々信心の稽古をさせて頂いて、その信心の稽古をさせて頂いて居ると云う事は、此の様にも間違いの無い神様のお働きの中に有ると云う事を、日日積み上げて居ったからだと云う事に成ったんです。だから自然にそう云う信心の教導と云う事がまあ又ね問題に有る訳なんです。
ですからそこに成るといわゆる親先生が云うて下さる、親先生が右と仰れば右。左と仰れば左と云うその生き方で行きゃ間違い無くおかげが頂かれると確信する。稔さんの東京へ行かれて十八年間の間。お店を開きたいお店を持ちたい年々、その事のお伺いが有ったけれどもまあだ待て、まあだ早すぎると言う事で。ようもようも私。今それを考えて思います。まあれだけのまお店きっての腕も頂き、人の信用も段々付いて来たのですから、十八年間もその待たせられるなんて。
昨日和子さんが言ってましたが、「先生やっぱり、それでも稔さんは、いいや親先生が、何と仰ったって今年と云う今年はもう聞かん。といいよった事も有りました。」と。「そうすると父から手紙が参ります。いろんな御理解を書いた手帳が送って参ります。その御理解を見る度んびに又は読ませて頂いて胸をなで下ろし、なで下ろししてそんならもう一年頑張ろうと云った様な事で御座いました。
ある時には私がもう一生懸命頼むように頼んで、とにかく親先生が仰る事だから、稔さん早まっちゃいかん。とどの位なだめたかわからん時が御座いました。」とこう言うておる。とにかく、親先生まかせに成っておけばと。そしてなら十八年ぶりに晴れてお店を持つ事に成らせて頂いたら一年たらずに、いや一年たたずじゃない開店と同時でしたからね。繁盛と云う事は。
丁度お母さんがあちらに手伝いに行っといて、実際に目の当たりに繁盛して居る様子の中に、一月でしたか一月以上も、あちらにお手伝いに行って、帰られたんですけれども、帰ろうと思っても、帰られん位に忙しかったんですから。もうそれこそやはり舞台裏の修行が長かったから花道に出た途端に、大向こうからいわば声が掛かる様なおかげを頂いて居る。成る程是れじゃあただ店は開いた、繁盛するやらせんやら判らない。
と人間的に努力もしなければ成らんだろうけれども、もうその神様が、十八年分を一辺に、取り返して下さる様に、あれよあれよと云う様な繁盛ぶりを、其処に見ると云う事がね、成る程親先生任せに成って居ればと云う事に成る訳ですが。そんなら親先生任せに成って居りさえすればと云う事もです。そんなら善導寺の方は勿論、和子さんの場合でもこちらであれだけ信心の稽古をして行って居りましたから、神様の間違いなさに日々おかげを頂いて居るから、それが言えた。ですからねそのう。
信心を長くして居ると云うだけではなくて、いよいよ是れだけは、先生任せにはなれん、神様任せにはなれないと云った様な事柄の中にあってもです、こう云う、難儀な事に直面した事によってです。例えば揺らいだり止めたりする様な場合が多いと云う事。それをやはり止めずに受けたのは、日々信心の稽古をして居るからなんですけれども、信心の稽古の中に、神様の間違いなさと云うものを。
身をもって体験して来たからこそ、そう云う、人間の一番悲しい事に直面しましても、又は、びっくりする様な驚く事に直面致しましても、もう辛抱は出来んと云う様な事柄に出会ましても。それを辛抱出来たと云う事は、神様の働きをこんなに身近に、日々解らせて感じさせて頂いて居る、信心の稽古が出来て居るからだと云う事に成るんです。ですから信心辛抱と云うのはそれだと思う。
とにかくただ漠然と神様がどうかして下さるだろうと云う様なものでは無くてです。本気で、本当に神様が頂けると云うか、神様を感じておるからこそどの様な場合であっても、そう云う神様のお働きの中に、こう云う事が起こったんだと云う事になる。だから日頃ろ頂いて居る成り行きを大事にして行くと云う事が、本当にその事を大事に出来た訳なんです。まあ其の様にしてです。
私は井戸ざらえと云うのは、出来て行くのだと思うのです。何十年信心をしておるからというなら、五十年も七十年も続けている人がありますよ。けれどもそんならこのまま行きゃあ、久保山一家の上にも繁盛が有るだろうと思われる様な、働きに成って来ない。ですからそう云う信心。だから此処ん所はまあ、二十八節を頂いてですねえ、大体何時も頂く通りの事ですからね、本当の信心辛抱が大事だと云う事。
その様にしてです。いわゆる何時の間にか井戸が清水に成って居る。又は成って行きよると云う事、感じられます。今日私はそう云う意味ではなくて、病気災難は根の切れるまで一心に壮健で繁盛する様、元気な心で信心せよと、仰しゃります「病気、災難の根の切れるまで」と云う事です。そう云う行き方の中から何時の間にか、お取り祓いを頂いて行くと云う生き方と同時にです。
病気災難の根が切れると云う事はね、私どもが一つの巡りなら巡りと云うものに、気付かせてもらってね、家の巡り身の巡りと云うものに、気づ付かせてもらって、是れが自分所のめぐりじゃんなあぁと解かったらです。それをですね。本当に根を断ってもらう程しのです。勇気いわゆる元気な心でそれを断ち切って行くと云う事なんです。其処に私は病気災難の根が切れる様にです。
私どもの巡りの根が切れる程しのおかげを頂くと云う事を、今日は皆さんに聞いて頂きたいのです。ね。皆さんも久保山さんと同じでしょうが、日々こうして信心の稽古をさせて頂いて、間違いないなあ神様は。もう先日のご理解じゃないけれども、是れ程神様を分からせて下さる。是れ程神様の働きを見せて下さる。もう其れこそそう云う意味においては言う事はない。合楽の場合神様をいくら信じないと言たって、信じない訳にはいけん程しにです。分からせて下さるのですから。
その事に付いては、言う事ない程しの、おかげを皆さん頂いて居られるのですから。こうして、信心の稽古をさせて頂いて、どの様な事に出会ってもでもです、久保山さんと同じ様にです。こう云う神様の間違いのない働きの中から起きて来る事だから、神様の御神意、御都合に間違いはない。としてそれを成り行きを大切にしながら、そこを通り抜け突き抜けして行く事が出来る。
成る程そ云う信心辛抱とはそう云う様な事。辛抱が出来ない時に本当に御神意を悟らしてもらい解らしてもろうていよいよそこを通り抜けて行くと云う信心。何時とはなしに何とはなしに家の巡りが、身の巡りがなんとは無しにこう取れて、何とは無しにおかげが伸びてくる。このままいきゃぁ本当に、子供の時代に成りゃぁ孫の時代に成りゃぁいよいよおかげを頂くだろうと思われる様な、ほのぼのとした、おかげを前途にです、感ずる事が出来る様なおかげ。
成る程、だんだんおかげで井戸も段々綺麗に成って来たと云う、と同時にこれはまあ、とにかく私どもの根切れと云う訳ですね。桂先生の奥さは、娘時代はそれこそ病み袋と云われる程しに、沢山の病気を持って御座ったね。世間では病みの袋と云う程しの、その為にあのう「沙美」と云う、海岸にある小さな村だそうですが、一山も二山も越えてから、大谷の金光様の元へ、繁々とお参りして来た訳ですねえ。
もう家での仕事は出来んのですから、金光さま参りが仕事であった。当時は二代金光様、四神様の時代。「金光様どう云う信心をさせて頂いたら、おかげ頂けましょうか。」というて、ある時お伺いされた。「そうじゃなあ、参り信心拝み信心、御利益信心様々信心があるけれど、まあいっぱし参る事じゃ。」と仰った。その「いっぱし参る事じゃ。」と云う事がです。私は今日言ういっぱし参って居る内に、何時の間にか何とはなしに根が切れて来る。云うならば、清まって来ると云う事でしょう。
その時桂おみつさんが、四神様に言うて居られます。「四神様本当に私のこの体の病気の状態と云うものがです。此処が少し良いと思うと片方が悪い。片一方がいいなあと思いよるともう下の方が悪い。下が良いと思いよると上の方が悪い。もう体全身の病気で御座いますからもう是れがもうそれこそ、せりの根を洗うた様にすっきりしたおかげは頂けんもんでしょうか。」と、い云うて居られたと。
せりの根を洗うと言う事はその様にすっきりすものらしいですね。だから私云った様なものではなくてです。今日只今すっきり出来れると云う事が言えれるんですよ。ね。是れは家のめぐりだ身のめぐりだと解りながら、ズルズルベッタリでそれを改め様ともしないし、改め様と思っても中々一辺に、改まる事が出来んと云った様なものが、銘々の家にも身にも有るでしょうが。私はここの所のですねえ。
病気災難は根の切れるまでと云う、根の切れると云う程しのですねえ、だから只今申します様に、「いっぱし参ると云う事によっていつのまにかと云う事です。もう本当に自分の心がそれこそ人間が二人見る湯に変わると云った様な事を申しますよね。あの人はああ云う悪い癖が有った、悲しんどったっちゃその妻、子供んと迄取り上げてからでも、競輪通いせにゃ出来んと云う人がある。
そして自分で思いよるです。自分にこう云う事があったんじゃあ、是れは自分だけじゃない一家中が苦しい事に愈々成って行く事が解かって居りながら止められん。いわゆるシンナ─遊び的なものなんです。そう云う「的」なものがお互いの心の中にも、家にもあると云う事。是れが此処の家の巡りだと思う様なものが。だから例えて申しますならば、まあ何時も申します様に。自分の好きな物。
例えばお酒が好きな人も有りゃ、お菓子が好きな人も有る。甘い物が好き辛い物が好き。その甘い物の為に自分の人格を落とすと云う様な人も有る。辛い物の為にいつも失敗をする人が有る。これは改めにゃこれは一つおかげ頂かにゃと例えば、その「甘な辛な」じゃないですけれども、そう云う様な例えば場合にです。けれどもやはり好きな物は好き。やはり止められない。もう好きなもんの前では、ガタガタ手が震うごとなる。
そう云う様なものがです。各々の心の中に又は家庭の中に有る。そう云う根を切ると云う事なんだ。私はそれこそせりの根を水で洗うた様に、すっきりと頂けると言う事は、そう云う事だと思うんですね。そこで私は今日昨日私の御結界の机の上に、こう云う物が上がっているんですよ。だぁれが持って来たんじゃろうか、誰が持って来たっちゃ古川所要と書いて有るからまあ古川の、こりゃまあものらしんです。
誰が持って来たじゃろか、だろうと思よったんですこの頃から、若先生が御本部参拝したときに、古川先生が、これはもう極秘のものらしいですね。これはですねえ。昨日も皆さんに云うちゃあ悪いんですけれど。御理解百節がこうして沢山有るでしょう。御理解百節が有るでしょ、その御理解百節以外の御理解なんです。是れが其れがね此の様にして取って有るね。それをずうとしてこうした刺繍も入れて。
それに御理解に似せた様な感じな所が書き留められて有り、まあちょっと開いて見ただけなんですけれども。私はこの事が此処に有ったから。今御理解二十八節を頂いて、それこそ根の切れるまでと言う事のね。と云う事がいわば「いっぱし参る」と云う事によって、何とはなしに清まって行くと言う生き方と、ね。もうそれこそその場で根が切れるようなおかげを頂くために。
いわゆる病気災難の根がその場で切れる様なですね。おかげを頂く為に、どう云う信心させて頂いたなら良かろうかと、思うて、私はこれを、ちょっと聞かせて頂いたら、それこそ、御理解以外のご理解なんですよ。ねえ是れは。「御理解本意」と読むでしょうかね是れは。そこを開かせて頂きましたらね「どうしょうと思うてためらう心に神は行かぬ。」と云うて居られます。
神は行かんと、どうしょうとためらう心には神は行かんと。まあ私は是一言で決まっている様な気がするんです。例えば辛い物が好きな人が、さあ酒を止めようか止めまいか。とてもけど是れを止めたら、自分の命を取られるごとある。もう是れだけが楽しみ。この甘い物を止めたら素晴らしい。けれど是れだけはしかし、自分の楽しみだからと。是れは、決して、甘な辛なの事じゃ無いですよ。
自分の心の中に改まると云う事なんです。それこそ是れは俺のとこの家の巡りじゃろうと、思う様な物があるです例えばね。まあそれは形の上に表れて居る事ですが、今の久保山一家の上にでもそうです。久保山先生がもうね何時も爪がない位にあったでしょうが。自分で噛み切りよんなさったです「あなた爪たべよるの。」と、私が言う位にあったです。所がやっぱり茂さんがそれがある。もう先生驚いてしまいますちゅて。
お母さんが何時か言われた事が有るですがです。純がやっぱりそうです、と云う訳なんです。純ちゃん一番長男です、そじゃけん此処でも良くやりますもん、私がほらほら云うと、こうこうやって降ろすんですよ。もうとにかくどうも出来ないものを感じますね。家のめぐりと云うのは。だからそれを改め様と云うのですから、大変な事なんですよ。やはり。ですからまあ爪を噛む位ならいいですけれどもね。
もうおかげが受けられない、それでは、おかげが受けられないと云う様な、巡りがあったんでは、何時までたっても、水が濁っているちゅう事です。ね。そこでです本当にセリの根を水で洗うた様な。自分の心がすっきりする様なおかげを頂く為にはです。酒の好きな人が、酒を止めると、たとえば言いよってもです。話が有りますよねえ。酒の好きな人が、酒を止めると、二人で話を決めた。
相談してねそれで今日が飲み収めじゃからと云うてからがばり飲んだ訳です。そして、明日から飲まんぞと。一人の人は酒の匂いがするなら、また崩れちゃならんと思うて、酒屋の裏を通って帰る。一人の人はですどんなに酒の匂いが酒屋からぷんぷんして来たっちゃ、それに迷う事じゃないと思うて、もうわざと酒屋の前を通ったち。この二人の人が、どちらが続いたかと云うと、裏通りをした人は、もうすぐ又云うならその修行が崩れたと云う訳です。そう云う例えば、此処では「元気な心で信心せよ。」と。
元気な心が片方には有った訳です。どんな誘惑を受けても、ね。もう迷わんぞとどんな、酒の匂いがぷんぷんして来ても、それで迷う事はないと云った様な、いわば、気持ちになった。これは成就した片方の人は、用心した酒屋の前どん通りよってまたぷんぷんして誘惑どん受けたら又やりそこなうから、もう裏通りを行こうと云う人は、もうちゃんとやりそこのうた。と云う訳です。
教祖のこの御理解を頂いてそれを思う。「どうしようと思うて、ためらう心に神は行かん。」所謂一心発起と云う事を申しますよね。私共の巡りを巡りとして気づいた時です。私共がね。ためらうのではなくてもう本気で。やはり私は死んだ気だと思うですねえ。私が修行中の自分に、死んだ気でと云う事を何時も頂いて居りました。ね。ですから死んだ気ですからもう死んどるのですから、所謂巡りの出ようがないです。
そう云うある日でした。母がお夢を頂きましてね。樺目の時代表の入り口が狭い、一間位でした。所がねお広前の中からね。小倉の桂先生が私どんは桂先生を実際存じあげて居りませけども、母達は知ってる訳ですね、御夢の中でもうそれこそ一間間口からでも出られんごたる大きな、それこそ像のような牛をです。こう手綱を引っ張ってから、引っ張りだして居られる所を頂いた。それでそのガラス戸を取ってしまえと、そのガラス戸を取ってしまってですね。
像のような大きなめぐりをですね。牛のお知らせは巡りと仰るが、その桂先生が引っ張り出しておって下さったと。私共が死んだ気でと云う時には、もう巡りの出様がない。そうでしょうが、どんなに甘い物好きでも、辛い物好きでも、死んだ気であったら飲むはずも、食べるはずもありません。そこに神が行くと云う事に成った訳です。桂先生がその牛の手綱を引っ張って出して下さったと云うお知らせを頂いたと云う事とが御座いました。死んだ気でと云う事は、もう一生懸命と云う事でしょう。
いわゆるその、ためらわないのです。だから是れならば今日只今からでもですよね。その気に成りゃあ、それこそセリの根を洗った様な、おかげが心の上にすっきり頂けるだろう。そのすっきりした心にです。おかげの頂ける事は、また間違いないです。それを何十年間しだごだで持ち続けておる。それではね、又失敗又神様すいませんと、言わにゃならん。それでそんならばちが当たる様な事は有りますまいけれども。
それでは所謂、セリの根を洗うた様にすっきりとした心が生まれません。だからおかげがすっきり致しません。いつも此処の所は所謂信心辛抱の徳によってです。「病気、災難は根の切れるまで」、言うなら「井戸は清水になるまで」。のおかげを頂くと言う意味に頂いて参りましたが、今日は皆さん此処の「根の切れるまで」、それもすっきりとセリの根を洗うた様な、すっきりしたおかげを頂く為にもです。
私共が、ね。いよいよそこに直面した時にはです。いよいよためらう事なく、言うなら死んだ気で、その事に取り組ませて頂くと言う事によってです。神が行くと仰る。ためらう心には、神様は行っちゃ下さらん。そこに私はすっきりしたおかげすっきりした、自分の心にも、もう本当に晴れ晴れしい日本晴れの様な心に上にです。すがすがしいまでのおかげが頂けて来る様な、おかげを頂きたい。為に、その事を願いとしたいと思います。
どうぞ。